日本書紀「悪夢の蘇我入鹿政権。泥棒すら独裁政治に恐れ、道に落ちている物も拾わなくなりました」 [237216734]
「大臣兒入鹿更名鞍作 自執国政 威勝於父 由是 盜賊恐懾 路不拾遺」
(大臣の子の入鹿は自ら国の執政を行い、その勢いは父の蝦夷よりも勝っていました。それで盗賊すら恐れて、道に落ちているものも取りませんでした)
https://greta.5ch.net/poverty/ https://i.imgur.com/mz9NmTZ.jpeg >>212 そのエピソードの場所が最近(?)遺跡かなんか出てきて本当の事かも?みたいになってるんじゃなかったっけ?(まあ個人的に場所が本当にあってもエピソードが本当かどうかは別問題だと思うけど)
差別用語の蝦夷って名前を蘇我氏がつけるわけないよな
後々つけられたとおもわれる
>>229 阿倍毛人みたいに特に変な名前つけられそうにない経歴の人にもついてるよ
重罰にしてガスガスと取り締まると偽の通報とかで簡単に死刑にされちゃうからな
そういう社会は評判はそりゃ悪いだろ
>>134 分家どころか俗にいう神武天皇から続く元々の天皇家が蘇我氏で
その支配をクーデターによりひっくり返したのが中臣鎌足一派だった可能性すらある
>>81 逆だろ
安倍の選挙応援演説を妨害した左翼がなんともなかったんだからな
>>89 日本が戦争を抑えられなかったのは独裁ではなかったからだしな
一度この辺の時代の大河ドラマやってみたらいいのにって思うね
あと日露戦争とかね
戦国時代はもう飽きた
日本書紀って、ほぼ全編にわたって朝鮮半島の政局も詳しく書いてるじゃん。察するよね
>>174 最高神は「女はけがれ」と言ってる
女は天皇になれない
皇室典範に明記してる通り「皇統は男系男子のみ」
女性天皇陛下は昔も今も未来も一度も存在しない。女性天皇陛下なんて存在しないのだ。女に金玉あんのか?女が最高神のY染色体精子出せんのか?答えは否だ。だから、今の天皇陛下、神武天皇を先祖に持つ私の父親そっくり激似の今上天皇陛下のお妃制度復活で若い臣民に種付けしまくればまだ間に合う。これしかない。
最高神が「俺のY染色体D2を持ってない奴は天皇と認めない」宣言してるからしゃーない
女性天皇陛下候補が最高神に「お前は違う」と言われたからしゃーない女性はXXで最高神のY染色体D2を持ってないYXじゃないから最高神が認めてないからしゃーない。
女には毎月くる月のあれがあるしな
最高神が決めた伝統ってやつよ理屈じゃない
蘇我の善政を否定しきれなかったから、蘇我派の皇族の厩戸皇子を美化していいことは全部聖徳太子、悪いことは全部蘇我氏って分けようとしたんだろ
>>241 当時の半島は日本領土だし万里の長城の内側は日本人の領土
当時は半島に韓国人はいない奴らの先祖はシベリアにいた
天智、天武という偉大な二人の大王の曾祖父、曽祖母に系譜が謎の人物がいるという闇
吉備姫王の母親と大俣王、彼らの正体については諸説あるが俺は蘇我馬子かその子蝦夷の血が入っているのではないかと考えている
記紀的にはどうも天智天武兄弟には蘇我馬子から入鹿までの臣下の分を弁えなかった三代の血が入らなかったというストーリーにこだわっているようなんだよ
意図的に隠されているように見える上の二人はこのような「忍坂王家」の純潔性に傷を付ける存在なのではないか
藤原不比等の正室が蘇我氏の娘で藤原の連中はだいたい蘇我の血を引いてること知ってたら変な陰謀論は言えなくなる
我蘇るで蘇我氏でイエス・キリスト、とうほぐにはイエス・キリストの弟の墓がある
蘇我蝦夷がとうほぐに流刑され蘇我蝦夷の子孫が征夷大将軍に討伐され
時代が下り五一五事件のクーデターをやったとうほぐの青年将校達が全員死刑になったのは偶然じゃないのだ。
なぜ二・二六事件事件のクーデターをやった海軍が死刑にされなかったのが
全て偶然ではない。
蘇我氏の本貫は橿原市曽我であろうことはほぼ通説となっているけど、この辺って磯城地域と葛城地域の中間ぐらいになるんだな
蘇我氏はいわゆる武内宿禰系氏族で馬子も推古に葛城県おねだりしてたりするが、実際に葛城連中との血縁関係があったのかは微妙
俺は第19代允恭天皇(アサヅマノスクネ)葛城氏族集団出身説という珍説を唱えているので蘇我氏大王説にも興味はあるが、やはり蘇我は稲目まではただの弱小氏族だったと考える方が自然な気がするな
>>247 忍坂王家の説明が抜けていた
欽明天皇の頃から蘇我氏の血が大王家にどんどん入っていったのだが欽明-敏達-押坂彦人大兄の系統に関してはそれを免れた
蘇我氏とある程度の距離を取れた押坂彦人大兄らやその子孫達が忍坂王家とされる
押坂彦人大兄の子で天智の父である舒明には蘇我氏の血は一切入っていないとされているし天智の母である皇極=斉明は記録上は蘇我稲目の血しか入っていない
天皇記や国記みたいな大王の系譜図を蘇我氏が製作・保管していて、それが変で燃えちゃった、ってのは都合が良すぎるよなぁ
しかも、天皇記を復元するのではなく、新しい日本書紀を作るってのは、蘇我氏の歴史書に都合の悪いことが書かれてました、って自白してるようなもんじゃん
小学校の歴史関係の参考書だとアミバの最期みたいな超ヘタレな命乞いしてるところに
中大兄皇子たちが迫ってリンチしてる絵がなんか面白くて見てた
今改めてみると人道的にちと問題あるシーンだけどw
>>253 松本清張が「火の国」で斉明天皇がゾロアスター教に嵌ってて
明日香の石造物はゾロアスター教の祭壇だと書いてたな
忍坂の血統が尊ばれる流れから押坂彦人大兄の母親である広姫の出身氏族の息長氏が持ち上げられたようで、息長氏ageのための造作が大王家の系譜にガッツリ加えられているようなんだよな
>>250 曽我か・・・長寿村のあった辺りだな、懐かしい・・・
>>256 敏達系の反蘇我最右翼の中大兄の親父が息長姓
琵琶湖水系の支配者だけに大津京に遷都したのかね
その”弟とされる”天武が海人氏(凡海氏)の出身で
安曇氏から後援を受けていて
壬申の乱の時に海人氏族の尾張伴造に助力を得る為に
奈良盆地ではなく不破から東国を抑えたとか?
>>257 大津京に関してはそれも一因だったかもしれないな
天武については俺としてはやはり凡海氏は彼の養育氏族であって血の繋がりはなかったという通説に依るので、東国との関係は強かっただろうというぐらいに留まるかな
あと俺は個々の海人を包括した海人族という概念にはかなり懐疑的
古代日本は今よりずっと山か海かの国だったので人々は程度の差こそあれ皆水域と関わっていたし、海運等に携わった連中のそれぞれの地域性は後年まで根強く残っている
山で分断される陸と違って海は一つ、というのは陸からの視点でしかない
>>252 曽加万知※は三倉を管掌したとされる。近代日本でいう大蔵省だけど、大蔵省がもっぱら出納記録を司る=財務を司る職掌になって終には「財務省」に改称されたのとおなじく出納記録も司ったことが強く推測できる。また古い時代ほど政体=祭政体だったのだから神事の用材を司ったというのもおそらく事実なのだろう
蘇我氏の倉庫管理の性格からさかのぼって一門の祖である満智の地位を事実以上に高めたのだという主張には説得力があるが、大王の格別化が進むにつれ軍事など国家的事業における用立てには蘇我の屯倉より大王直轄の屯倉の比重が高まる傾向が記述からは伺え、曽我氏はむしろ専門官としての権益が大王家の家職に蚕食されるにつれていわば“大王御内”における執権的な立場を得る立ち位置に変質していったものと捉えるほうが実態に近いのかもしれない。これは後に将軍を頂点とした「鎌倉幕府」の体制が鎌倉北条氏の私政に変容するにつれ家政をつかさどる内管領が政府自体の実質的な首座になりおおせたのに批准しうるかもしれない。曾我氏は大王を凌ぐほどの権勢の結果として第一位の大夫(まえつきみ)を事実上独占するまでになった、これは一面ではそういえるが、別の面から言うと「もともと大王家そのものと職掌の違いで並立するような部分的独立首長であったものが、集権による再編成の過程でやや“浮いた”状態になり、自身の立場を再構築するなかで大王主権に組み込まれ“内閣首座”へと“格下げ”されつつ実権力は伸張した
ただし、『部分的独立首長』はべつに曽加氏にかぎったものではなく、もとより盟主(大王)のゆるい統制下にある首長連合体制だったのであり、大王御内人ともいえる人々とは区別される存在だった」
※「蘇我満智」にわざと違う字を充てたのは、当時の人々にとって名を表すのはあくまで音であって表記はただのその場しのぎの音符にすぎなかったということを強調するため
蘇我氏は満智=マチの名や故地の忌部拠点地との近接性から元々は祭祀系氏族であった可能性が高い
継体〜欽明期に何かあってかつての葛城氏の権益奪取とそれに伴う渡来人獲得を経て強大化したように思う(更に東漢氏との協力関係などもある)
吉備の屯倉関係については一時期吉備と繋がっていた葛城氏権益の整理という面は見逃せない
>>222 歴史書から消せない理由は一つしかない。
当時生きていた人間に、縁者(子孫や親戚)があまりに多かったから、
単純に消すと政権が維持できなかった。
蘇我氏云々というが明確にネガキャンされているのは蝦夷入鹿親子ぐらいでは
>>261 初期ヤマト王権=ヤマトの大王(一味)の家政の公権力化
…という観点でいうと、鞆公※にも鞆公の家政があり、カムト(出雲)にもカムトの家政があり、カツラ=ギ(葛城)に眷属を多く抱えたらしい人々もまたそうだったはず
蘇我氏における(家)政府中枢を“今来”の人々が握っていたのだとすれば
“曽加”そのものはいわば“古渡”だったのではないかと
韓子が百済国境で死んでいること、そもそも直系が「韓子」「高麗」であることを鑑みるに…
※ 吉備王をこう書いた。そもそもキビの由来は羈縻の音写そのものだったのかもしれない(弥生漢音の存在また「典曹」「杖刀人」の漢風官名の考古事実から敷衍)
古代史ロマン面白いんだよなあ
嫌儲は古代史やたら詳しいマンが何人かいるからスレ読んでてて楽しい
>>222 日本の首都大阪を舞台に物部守屋を我蘇るのイエス・キリストの蘇我氏が首チョンパした首塚が首都大阪にあるしそれを知ってる子孫が沢山
日本の最初で今も本物の首都大阪に沢山いるから存在を消せるわけないやんw
かっぺの罪人の流刑地の全息穢多非人部落の日本の首都じゃない偽もんバッタモンの自称東の京都トキョ地方とは訳が違う。
>>265 韓子は確かに倭人と半島人の混血を指す言葉でもあるが蘇我韓子の伝承自体が蘇我氏の活躍した期間を遡らせるためだけに作られたとみられる
葛城のソツヒコ伝承の方は明らかに史実ではないが、何かしらの史実の反映である可能性は濃厚である
韓子の伝承は純粋な創作色が強い
更に言えば渡来人だから韓子、高麗という名を系譜上の祖に与えるというのは他氏の系譜では見られない造作である
>>104 古事記の時点で漢文から日本の文法に直してた太安万侶が胃痛に悩まされてた
>>268 > 韓子の伝承は純粋な創作色が強い
そうかなあ?
その時期の記述ってば、たとえば「嶋公」(百羅 武寧王)に関しては武寧王陵出土墓誌の
「寧東大将軍百済斯麻王 年六十二歳 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
から史実性が実証されているんだよね
漢風諡号とはべつにシマと呼ばれていたことがこれではっきりした
「シマ」君の所生は雄略天皇五年のこととして記されていて、紀大磐と蘇我韓子の諍いと百済王による調停はその後の雄略天皇九年の記事だ
このあたりのくだりの史実性を相当程度に信じてよいのではないかな
>>270 武寧王、雄略の実在性や記録との整合等と韓子の実在性は別の話でしょう
「大磐と韓子は馬に乗って国境近くの川に行って〜」みたいなエピソードだけがある現状では現実に韓子のモデルがいて半島で活躍したとはできないと思う
あれは紀氏の伝承に大伴氏と蘇我氏の架空の祖をねじ込んだ形と考えるのが自然ではないか
>>271 彼らの同輩の将軍とされる大伴談は、のちヲホドを大王(つまり継体天皇)に迎えたとされる大伴金村の一世父だよ
そしてヲホドがヤマト王権において特異な所生だったらしいことは継体天皇の真陵が今城塚古墳とほぼ同定されていてまさに考古事実だ
他の史実性の高い記述の合間に挿入できる創作とは思い難い
武内宿禰系氏族の祖達は応神期に一斉に朝鮮へ渡ったことがあったとされる
それに比べればまだ幾分かはマシな伝承ではあるが、やはり蘇我氏の祖が雄略期から活躍していたのは考えにくいという説に与したい
>>272 談および室屋に関しては実在性が薄い…のは承知の上であの金村の父親世代なのだから全く史実を反映してない訳ないだろ!という主旨のレスでいいかな?
俺は大伴氏については金村かその父親によって短期間で成り上がった特殊な一族だと考えているので談や室屋の事績にも否定的な立場
大伴氏と物部氏は継体以前と以後の王権を橋渡ししたのではなく、継体側についた氏族が後に史実より数代前から活躍していたように見せかけてあるだけだという考え
だから俺は大伴談はモデルもいない架空の人物説に立つ
これ(大伴物部の活躍は継体以降説)は蘇我韓子非実在説と違って全然通説じゃないということは言っておかないといけないね
>>239 貞観政要も知らないのかよ
お前嫌儲降りろ
>>273 もうひとついうと、この時期の大王家執権(家宰)が大伴室屋 大連。記述にしたがえば談の父つまり金村の祖父だ
記事によればこのときの新羅放伐はワカタケル(雄略天皇)が親征を企んだ。神託で沙汰止みになったけれど、遠征自体はワカタケルの親衛隊が動員された。ほかならぬ談がそれで、談は左衛門督にあたる職掌だったらしい。つまり一連の記事や他資料を信じるなら「談の存在自体が大王親衛の動員を示すものだった」
そしてその談も戦死したとされる
これってワカタケル政権にとってものすごい大事件だよ。政権代表の大伴室屋大連の孫が戦死したということでもある。本来はもっと大災として描かれて然るべきなんだろうけど、記事としては創作どころかむしろ矮小化され、ワカタケルの准親征としての武功は強めに書いているとみられる。すなわち新羅側が記事どおりに追い詰められたかは怪しい
なお、
雄略の政権は考古的に中央集権・首長勢力抑圧だったことがわかっている。この時期の大王家政府の代表が「大連」大伴室屋。このことは大伴の性格が従来推察されているとおり大王家“御内”であったこと、「大連」が大王御内勢力の首座を指したのであろうことを強く示唆しているという意味でも興味ぶかい
紀では雄略の頃から佐伯部の名を持つ者が登場する
佐伯というのは敵の捕虜を兵士にした連中のことで、そいつらを管理したのが佐伯・佐伯部氏だったという
当時国軍のようなものはまだ存在しなかったと考えられているが、景行紀にある佐伯を編成して各国に配置したという話は雄略期前後の史実の反映としてよいという
大伴氏の研究ではほぼ必ずと言ってよいほど取り上げられる久米氏という戦闘集団は、神武東征で描かれるみたくあくまで大王家の親衛隊ポジであって国軍の前段階のようなものではなかったらしい
さて中央にて佐伯を統括する役目を負ったのは佐伯連(ムラジ)だったが、彼らは室屋の代に大伴連と別れた氏族であるというが、大伴氏と共に宮門警備などを指揮したとされる
これはよく考えればかなり不自然な話
たかだか数代前に別れた近縁の二氏族が同じような職掌を司る意味とは何であろうか