>>261
初期ヤマト王権=ヤマトの大王(一味)の家政の公権力化

…という観点でいうと、鞆公※にも鞆公の家政があり、カムト(出雲)にもカムトの家政があり、カツラ=ギ(葛城)に眷属を多く抱えたらしい人々もまたそうだったはず

蘇我氏における(家)政府中枢を“今来”の人々が握っていたのだとすれば
“曽加”そのものはいわば“古渡”だったのではないかと
韓子が百済国境で死んでいること、そもそも直系が「韓子」「高麗」であることを鑑みるに…


※ 吉備王をこう書いた。そもそもキビの由来は羈縻の音写そのものだったのかもしれない(弥生漢音の存在また「典曹」「杖刀人」の漢風官名の考古事実から敷衍)